女相撲(おんなずもう)は、女性同士の取り組みによる相撲興行である。
江戸時代、延享2年(1745年)の『流行記』延享二年落首柳営役人評判謎に、「一、曲淵越前守を見て女の角力ぢやといふ、その心は両国ではほめれど、一円力がない」とあり、江戸両国で座頭相撲の座頭力士に女性力士を取り組ませたと記述される。
大坂では明和6年(1769年)に女相撲興行が始められ、「力業を習ひし女郎も、同じ大阪難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」と、「世間化物気質」にあり、その人気が分かる。
「孝行娘袖日記」明和7年(1770年)版には、「とても、かやうな儀は上方でなければ宜しうござりやせぬ。御聞及びの通り、近年女の相撲などさへ出来ましたる花の都」とある。
ロージナ総合通販サーチ
家庭教師・専門学校関連暮らしの教育検索
交通・動物園関連旅行・地域情報総合
ナヨテンマスキンケアナビ
どこでも 経済支援情報
マンチェスターよくばり生活情報
成人病・老人ホーム関連健康プラザ検索エンジン
たまゆらオンライン通販COM
学校・語学関連暮らしの教育サイト
江戸でも女性と盲人との相撲が大評判で、安永年間(1772年 - 1781年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけて女相撲に取材した黄表紙、滑稽本が流行した。その後、女相撲の好色なひいきが申し合わせて、興行人・世話人に金銭を与えて、醜態を演ずることがあったため、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられた。寛政年間にはヒツジと相撲をとらせる女相撲がおこなわれた。
文政9年(1826年)、両国で盲人と女性との相撲が復活した。
女相撲のみの興行は、田沼意知の好むところで、広間に天鵞絨(びろうど)の蒲団土俵を作って、女中相撲をさせたという俗伝がある。興行者にもその企図するものがあったが、その後の禁止でそのままであったが、嘉永元年(1848年)大阪難波新地で名古屋上り女相撲の一団が興行を復活させ、それまで島田、丸髷姿であったのを男髷にあらため、大津絵節に、「難波新地の溝の川、力女の花競べ、数々の盛んの人気、取結びたる名古屋帯、尾張の国から上り来て、お目見え芸の甚句節、打揃ひつつ拍子やう、姿なまめく手踊に引替へて、力争ふ勢ひの烈しさと優しさは、裏と表の四十八手」とうたわれるほどの人気となり、華美なまわしのしめこみと美声の甚句節手踊りが観客のこころをとらえ、幕末、興行界で異彩をはなった。
明治5年(1872年)3月、男女相撲見物の再差止により消滅傾向にあったが、明治中頃、興行界に復活した。一団は30人ほど、地方巡業にも出た。女性力士の多くは14、5歳から25歳くらいの女性で、挌技を競うというよりもむしろ余興の舞踊、力業曲芸を主としたもので、お目見えかっぽれ、相撲甚句、「潮来イチャナイチャナ、出島の真菰の中で、ヤレオケサガオウ、菖蒲咲くとは、イチャナイチャナ、しほらしや、イチャイチャイチャナア」などという、いちゃな節という俗謡を、締め込み姿で、派手などてらをうちかけてずらりと並び、囃子方に合わせて、力足を踏みしめて、踊る舞踊、また源太郎、どじょうすくい、その他流行の小唄節、流行踊りをやり、曲芸は腹の上での餅つき、七人娘曲芸などで、全裸ではなくて薄い肉襦袢を着込んで、猿股を穿いていた。