2009年12月04日

各地方での調理法の違い

すき焼きは、日本国内各地方でその調理法に違いが見られる。

関東のすき焼きは明治に流行した牛鍋がベースになっており、出汁に醤油・砂糖・みりん・酒などの調味料を混ぜた割下をあらかじめ用意し、割下の中で牛肉を煮る。関西のものは文字通り牛肉を焼く料理で、肉が焼けたところに砂糖を乗せるか、まぶし、醤油を直接加えて味付けをする。肉と水の出る野菜を同時に焼かない点、コンニャクなど肉を硬くする作用を持つものを一緒に焼かないことなど、関西の調理の手順には特徴がある。ただし、野菜など他の食材から出る水分と砂糖および醤油が混ざることを考慮して、牛肉が焼けた後に他の食材を加えて調理する地域もある。

東西の食べ方の境界線は、愛知県豊橋市にあると言われる[誰?]。現在では割下を万能調味料として売り出していることもあり、その境界は明確ではなくなってきている。
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北海道や新潟県ではその昔、牛肉ではなく豚肉を使うことが一般的だった。これはかつてこの地域では牛肉が高価だったせいもあり、食べる習慣があまりなかったためである。しかし、比較的安価に牛肉が提供されるようになった現在では牛肉を使う場合が多い。

また滋賀では鶏肉で食べる習慣もある。
入れる野菜も、地方によってはモヤシを入れたりジャガイモを入れたりと様々である。
古川緑波のエッセイによると、焼けた肉は具材を溶き卵に潜らせて食べるのは関西発祥で、関東の牛鍋をベースとしたすき焼き店では、溶き卵を出す店は無かったらしい。その後、関西のすき焼き店が関東に進出してきた時に、溶き卵を付けて食べる習慣も持ち込まれ、一般化したと言う。 なぜとき卵が使われるようになったかと言うと具材をいきなり口にいれ火傷をしてしまわないようにと、ほどよい温度にしてから食べるようにしたためである。

2009年11月29日

尿素の用途として

尿素の用途として、保湿クリーム・肥料などとして広く使われており、ホルムアルデヒド (HCHO) と反応させることで尿素樹脂(ユリア樹脂)も得ることが出来る。高濃度の水溶液はタンパク質、核酸を変性させる作用がある。

水と混ぜると吸熱効果が現れる。硝酸アンモニウムと尿素の混合物を水の入った袋と同封し、衝撃を加えて混合物を反応させ冷却効果を得る携帯用の冷却パックとしての用途もある。

またディーゼルエンジンでは、尿素を水に溶かした尿素水を使って窒素酸化物を分解している[1]。具体的には、尿素をディーゼルエンジンの排熱で分解し、放出されるアンモニアと排気中に含まれる窒素酸化物を化学反応させ、水と窒素に還元させる。
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尿素は、人間の手によって初めて無機化合物のみから合成された有機化合物として、有機化学の歴史上非常に重要な化合物である。 1828年にその合成に成功した人物は、フリードリヒ・ヴェーラーである。彼は、シアン酸アンモニウムの水溶液を加熱して尿素が生成することを確認した。この合成法はヴェーラー合成と呼ばれている。

その当時の化学では、有機化合物は生物にしか作り出すことができないという考え(生気論)が正当とされてきたが、ヴェーラーの実験結果はそれをくつがえすもののひとつとなった(ただし、尿素は炭酸のアミドに相当し、炭酸は通常有機化合物に含まれない。このため尿素を真に有機化合物と呼んでよいかは議論がある)。

2009年11月24日

平安時代以降

法隆寺が飛鳥・奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺はたび重なる災害のため、古い建物はことごとく失われている。早くも平安時代の承和2年(836年)には落雷で、天徳4年(960年)には火災で主要伽藍が失われている。

聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきた。太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていった。太陽の沈む「西」は死者のおもむく先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めた。現在も寺に伝わり国宝に指定されている「四天王寺縁起」は、こうした信仰を広めるのに大いに力があった。「四天王寺縁起」は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとするが、実際には後世の仮託で、「発見」時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説である。既述の「四箇院」のこともこの「縁起」に見えるものである。
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院政期の上皇や法皇は四天王寺にしばしば参詣した。後醍醐天皇は上述の「四天王寺縁起」を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している(これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている)。平安?鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗の最澄、真言宗の空海、融通念仏の良忍、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などが四天王寺に参篭したことも知られている。

四天王寺は近世以降もたびたび災害に見舞われた。天正4年(1576年)には石山本願寺攻めの兵火で焼失。豊臣秀吉によって再建されるが、やがて慶長19年(1614年)大坂冬の陣で焼失。

2009年11月04日

南仁山

未開発の低海抜熱帯広葉樹林である南仁山森林があり、台湾の植物の1/3が自生し固有種も多い、気候分布も熱帯と亜熱帯に属する事と長期に渡る東北季節風の影響で、約2000mにある高山植物から低海抜熱帯雨林までの植生が標高500mの高度差の南仁山地域にあり、貴重な環境を持つ自然保護区である。植物の他、昆虫や動物も多種が生息し、固有種も多い、なじみのある動物として、サワガニ、アカガエル、コノハチョウ、ジョロウグモ、トカゲなどが見られる。台湾は面積比に換算したチョウの生息数は世界一位であり、チョウの観察では南仁山も台湾で有数で、温暖な気候により、1年を通じて数十種類のチョウを見る事ができる。

九棚湾側の南仁山の麓(ふもと)に位置する原住民の遺跡である。約700年前の石板を積んだ住居が四列に並んで約60戸あったとされるが、ほとんどが倒壊している。台湾原住民のパイワン族の住居に類似しており、屋内で豚などの家畜を飼育していた跡があり、屋外には祭壇が完全な形で残っている。
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満州郷に属し南仁山の西にある渓谷の渓流にある七つの滝をさす。駐車場が完備され、そこから遊歩道で渓谷を登っていく。一の滝と二の滝は約20mの崖に連続してある。三の滝は約11mの緩やか円弧を描く崖にあり、四の滝は約6mで白糸の滝といわれている。五の滝は約13mで真直ぐに一筋となって流れ落ちている。六の滝は、約10mで末広がりにおちる。七の滝は一番小さく、ひっそりとした印象である。

2009年10月28日

中国から来た最初のキンギョ

中国から来た最初のキンギョ。フナに近い体型。もっとも手に入りやすく、丈夫で飼いやすい品種。観賞用としては、更紗模様の三つ尾のものが好まれる。和金の子供で、体長3cm前後のものを小赤、5cm前後のものを姉金と称することもあり、縁日の金魚すくいなどでよく見られるほか、大型肉食性魚の生き餌として使われることもある。フナに一番近い金魚のため、平均寿命も金魚の中で最も高い。フナに近いため明治時代には食用としての研究もされている。

アメリカから逆輸入という形で日本に入ってきたキンギョ。水産試験場の池で、日本から輸入されたフナやリュウキンなどが自然交配を重ねた結果生まれた品種。ワキンの様に細長い体にすらりと伸びた鰭が美しい。吹き流し尾と呼ばれる長い尾をなびかせて素早く泳ぐ姿が彗星を連想させるためにこの名が付いた。手に入りやすく、丈夫で飼いやすい品種。
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大正時代に山形県の庄内地方で生み出された品種。体色は赤一色か更紗。一見コメットに似るが体型はいくぶんか丸みを帯びており、尾びれの張りもあまり強くない。寒冷な気候に非常に強く、丈夫な品種。

サンショクデメキンとの交配により、キャリコ柄になった品種。体型はコメットに近く、長く伸びた各鰭が特徴。手に入りやすく、丈夫で飼いやすい品種。なお、イギリスには特徴的な尾を持つブリストルシュブンキンという品種のみを、熱心に飼育する愛好会も数多く存在する。

2009年10月18日

外食

夕食は、家庭ではなく飲食店で取られることもある。外で取る食事ということで外食と呼ばれる。
ファミリーレストランは、家庭の夕食スタイルを飲食店に持ち込んだもので、1970年のすかいらーくを嚆矢として、全国に広まっている。
外食の提供元は、レストラン形式以外にも、居酒屋や焼肉屋など多様な形態があり、2000年度には27兆円規模になっている。
出来上がった惣菜を買って帰り、家庭で食べる食事のスタイルを中食(なかしょく)と呼ぶ。また、半調理済みの食材を買って帰り、家庭で最終調理を行って食事をするスタイルは内食(うちしょく)と呼ばれる。1990年代半ば頃から注目されるようになったスタイルであり、夕食をこれらのスタイルで取ることも多くなっている。
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ディナーは、1日で主要な食事である。食事は通常調理した、または時々未調理の、タンパク質(肉、魚、またはマメ類)と野菜、およびデンプン製品のコメ、麺、またはジャガイモである。

ディナーの語は、フランス語で「1日で主要な食事」を意味するdîner に由来する。dîner は更に古フランス語のdisner に由来する。ディナーはまた、洗練された、響宴のような食事である。

2009年06月18日

ヒューマンファクター(英: Human factors)

ヒューマンファクター(英: Human factors)は非常に幅広い意味を持つ用語であり、人間の能率、テクノロジー、デザイン、マンマシンインタフェースなどの領域を含む。人間と道具や現代社会に存在する各種手続きの関わりに注目することを意味する。

「ヒューマンファクター」という用語は主にアメリカ合衆国で使われる。研究分野の名称としては "human factors engineering" や "human engineering" と称する。アメリカ以外では "ergonomics" という用語が使われることが多い。アメリカで "ergonomics" と言えば、マンマシンインタフェースなどにおける人体測定学(anthropometry)的な意味しかなく[要出典]、ヒューマンファクターは心理学的側面が強調された用語となっている。
物流
剣道
理学療法
建築学
救急医学
東海地方
結膜炎
有機化学
糖尿病
エックス線
湯・群馬
冠婚マナー集
玉露百科
楽しいアロマ
日本の音楽
皮膚と体毛
コーヒーで一息
循環器事典
さくら咲く
こどもの歌


ヒューマンファクターの研究者の学問的背景は様々だが、心理学者と工学者が多い。他にもデザイナー、人類学者、計算機科学者などもいる。他の分野から参入する人が多いが、ヒューマンファクターの学位を授与する大学もいくつかある。

ヒューマンファクターの研究分野としては、仕事量、疲労、状況認識、ユーザビリティ、ユーザインタフェース、学習可能性、注目、警戒、人間の能率、人間の信頼性、人間とコンピュータの相互作用、制御/表示設計、ストレス、データの可視化、個人差、加齢、アクセス可能性、安全性、仮想環境などの特殊な環境での作業、人間のエラー、意思決定などがある。

簡単に言えば、ヒューマンファクターとは人々が自然に感じられるように周囲の環境を整えることに関する研究である。現在では一般化した用語であるが、第二次世界大戦で航空機の安全性を高めるために、その設計や運用を研究したことが起源であった。その研究に関与していた心理学者らがヒューマンファクターという用語を作った。

人間-機械モデル [編集]
人間-機械モデルとは、簡単に言えば何らかの環境で機械と人間がやり取りすることを指す。その人間と機械を入出力と中央処理装置を持った情報処理機器にモデル化する。人間の入力は五感であり、出力は手や声である。機械の入力はキーボードやマウスであり、出力はディスプレイなどである。物理的特性(振動、雑音、重力など)、認知的特性(時間の余裕の有無、不確かさ、危険性など)、組織的特性(組織構造、仕事の定義など)によってこのモデルが特徴付けられる。このようなモデル化によって、機械の表示や入力方法をどうすべきか、作業場所の配置や設計、保守性の高い設計、作業環境の設計といったヒューマンファクターのテーマが明らかとなる。

2009年06月01日

共通祖先

共通祖先(きょうつうそせん、Common descent)とは生物進化をさかのぼることで生まれた『全生物の祖先型生命』の概念を表す語である。共通祖先の存在は概念的には古くから提唱されていたものの科学的にその存在が提唱されたのは1987年以降であり、そこにはカール・ウーズによる古細菌の発見が重要な役割を演じている。本記事は『生命の起源』と重複するが、生命の起源では論じられない生命誕生後の進化やそのあり方について解説する。

1977年、カール・ウーズらによって原核生物が古細菌および真正細菌からなることが提唱され、後々の研究から3ドメインの概念は統一的見解が得られているといっても過言ではない。しかしそれ以前の生物学では、生物とは原核生物(細菌のみ)と真核生物に分けられていた。生物進化の大原則として

単純な生物から複雑な生物へ進化する
というものがあるが、これに基づいて

原核生物から真核生物が生まれた
したがって原核生物は真核生物の祖先である
という論理が自然に成立した。しかし、原核細胞と真核細胞は極めて異なっており、このことを論理的に証明することは出来ていなかった。その後、古細菌が発見され、それを含めた無根系統樹の作成により系統樹が一点に向かって収斂している『共通祖先』の概念が明らかになった。

3ドメイン系統樹をはじめに作成したのはウーズおよびオルセンである。系統樹に共通の根をつけるに当ってはアウトグループと言う完全に系統の異なる比較対照生物が必要である。しかし、全生物を対象にした系統樹ではアウトグループとなる生物は存在せず、系統樹が一点に向かって収斂する無根系統樹のみしか筆記することは出来ない。しかし1987年に彼らの描いた系統樹は、3ドメインの存在を説明するものであり、なにより『最後の共通の祖先』の存在を示すものだった。

1987年にウーズの行なった3ドメイン系統樹では、系統樹の根を作成することが出来なかった。したがってこの系統樹から共通祖先が概念的に存在することは言えても、論理的に存在するとはいえなかった。1988年、レイクによって無根系統樹を折り曲げて根を作る方法が考案されたものの、遺伝子の進化速度が種によっても一定でないという点で不完全であった。

1989年、ゴガルテンら、岩辺らによって全生物を対象とした有根系統樹の作成に関する手法が開発された。それぞれ対象とした遺伝子は異なっているが、2種類以上の配列のよく似た遺伝子を用いると言う点では同じである。

配列のよく似た遺伝子はもともと1つの遺伝子である場合が多く、種分化以前に遺伝子が2種類に分かれ、その後別種として分化していったと考えた場合、2種類の遺伝子のうち1つをアウトグループとして用いることによって系統樹に根をつけるという原理である。この方法に用いられた遺伝子としては、ATPアーゼ、タンパク質伸長因子、リンゴ酸脱水素酵素、乳酸脱水素酵素などが用いられている。

この方法で描かれた多くの系統樹によると原核生物と真核生物の分岐よりも以前に、古細菌と真正細菌の分岐が起きていると言う結果を、そのいずれもが反映した。したがってこの時はじめて『共通祖先』が存在したことが論理的に説明できたと言える。この後、この共通祖先がいかなる生物であるか、多くの提案がなされた。

本記事では全生物の共通の祖先を一くくりに共通祖先としており、その共通祖先は古細菌と真正細菌が分化する以前の生物としている。しかし多くの詳細な提案がなされている。それらをあげていくと、
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プロゲノート:遺伝子型と表現型の対応関係の成立していない生物
コモノート:環状のDNAを持つ遺伝の仕組みが成立している生物
センアンセスター:上記二つとは異なり、各遺伝子の系統樹分岐パターンの違いを含めた曖昧な共通祖先を意味する概念的な生物
LUCA (Last Universal Common Ancestor) 全生物の共通祖先
となる。しかしこれら4つの提案は論じている生物の世代や時間が異なっていることも考えられ、プロゲノートはコモノートに進化したと考えることも可能である。

プロゲノート(progenote; プロジェノート)は3ドメインの提唱者であるウーズの提案した共通祖先であるが、要約すると『遺伝的仕組みが成立していない生物』である。これはある意味『共通祖先は存在せず、プロゲノートが個別に進化することによって遺伝的仕組みがそれぞれ出来上がってきた』と考えられる。これは3ドメインの生物が余りにも異なっているために提唱されたと考えられる。

1994年、カンドラーもよく似た提案をしており、『連続したゲノムを有しない分断された遺伝子が混ざり合うことによって3ドメインの生物が生まれた』としている。

1993年に近藤らによって好熱性古細菌Sulfolobus acidocaldariusのゲノムは環状であることが証明された。そして真正細菌も環状DNAを有することから共通祖先も環状DNAを有していたと考えた。この結果を受けて、東京薬科大学の山岸明彦教授により『共通祖先は遺伝的仕組みが成立し、環状ゲノムを有していた』とされるコモノートが提案された

1989年、有根系統樹作成法の確立以降、多くの遺伝子を用いて系統樹が作成された。結果、共通祖先の存在を示すものの分岐パターンが異なっており、真正細菌の遺伝子であるにもかかわらず別系統に出現するなど例外的なものも多く見られた。こうした事実を受けて1994年、ドリトルとブラウンは共通祖先は曖昧なものであるとし、センアンセスターを提唱した。しかしセンアンセスターは共通祖先像に対してなんら具体的な提案は行なっていない。

これまでなされてきた多くの有根系統樹に関する研究から、共通祖先型生命像が描かれつつある。あくまで系統樹で論じられているのみだが、その生化学的性質などは以下のものが提案されている。

好熱菌である
ゲノムサイズは小さい
遺伝子数は少ない
分子系統樹によると、真正細菌、古細菌のいずれも根元に近い生物の中に高度好熱菌あるいは超好熱菌が多く見られる。例えば真正細菌であればAquifex属、Thermotoga属、古細菌であればThermoproteus属、Thermococcus属などである。この点から1986年ペイス、1987年アッヒェンバッハ-リヒターは共通祖先が好熱菌であることをのべている。また、好熱菌は概してゲノムサイズが小さく遺伝子もコンパクトにまとまっており、共通祖先はそのゲノムサイズも小さかったことが山岸から提案されている。

しかし、1995年ゴガルテン-ベッケルや1996年フォーティアによって共通祖先以前の原始生命体の中から好熱性を示すものがスクリーニングされることによって共通祖先が好熱性を示すことも指摘されているが、これは共通祖先が好熱性を示すことに異を唱えるものではない。

2009年04月28日

女相撲

女相撲(おんなずもう)は、女性同士の取り組みによる相撲興行である。

江戸時代、延享2年(1745年)の『流行記』延享二年落首柳営役人評判謎に、「一、曲淵越前守を見て女の角力ぢやといふ、その心は両国ではほめれど、一円力がない」とあり、江戸両国で座頭相撲の座頭力士に女性力士を取り組ませたと記述される。

大坂では明和6年(1769年)に女相撲興行が始められ、「力業を習ひし女郎も、同じ大阪難波新地に女子の角力興行の関に抱へられ、坂額といふ関取、三十日百五十両にて、先銀取れば」と、「世間化物気質」にあり、その人気が分かる。

「孝行娘袖日記」明和7年(1770年)版には、「とても、かやうな儀は上方でなければ宜しうござりやせぬ。御聞及びの通り、近年女の相撲などさへ出来ましたる花の都」とある。

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江戸でも女性と盲人との相撲が大評判で、安永年間(1772年 - 1781年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけて女相撲に取材した黄表紙、滑稽本が流行した。その後、女相撲の好色なひいきが申し合わせて、興行人・世話人に金銭を与えて、醜態を演ずることがあったため、寺社奉行から相撲小屋の取り払いを命じられた。寛政年間にはヒツジと相撲をとらせる女相撲がおこなわれた。

文政9年(1826年)、両国で盲人と女性との相撲が復活した。

女相撲のみの興行は、田沼意知の好むところで、広間に天鵞絨(びろうど)の蒲団土俵を作って、女中相撲をさせたという俗伝がある。興行者にもその企図するものがあったが、その後の禁止でそのままであったが、嘉永元年(1848年)大阪難波新地で名古屋上り女相撲の一団が興行を復活させ、それまで島田、丸髷姿であったのを男髷にあらため、大津絵節に、「難波新地の溝の川、力女の花競べ、数々の盛んの人気、取結びたる名古屋帯、尾張の国から上り来て、お目見え芸の甚句節、打揃ひつつ拍子やう、姿なまめく手踊に引替へて、力争ふ勢ひの烈しさと優しさは、裏と表の四十八手」とうたわれるほどの人気となり、華美なまわしのしめこみと美声の甚句節手踊りが観客のこころをとらえ、幕末、興行界で異彩をはなった。

明治5年(1872年)3月、男女相撲見物の再差止により消滅傾向にあったが、明治中頃、興行界に復活した。一団は30人ほど、地方巡業にも出た。女性力士の多くは14、5歳から25歳くらいの女性で、挌技を競うというよりもむしろ余興の舞踊、力業曲芸を主としたもので、お目見えかっぽれ、相撲甚句、「潮来イチャナイチャナ、出島の真菰の中で、ヤレオケサガオウ、菖蒲咲くとは、イチャナイチャナ、しほらしや、イチャイチャイチャナア」などという、いちゃな節という俗謡を、締め込み姿で、派手などてらをうちかけてずらりと並び、囃子方に合わせて、力足を踏みしめて、踊る舞踊、また源太郎、どじょうすくい、その他流行の小唄節、流行踊りをやり、曲芸は腹の上での餅つき、七人娘曲芸などで、全裸ではなくて薄い肉襦袢を着込んで、猿股を穿いていた。

2009年04月13日

寇 恂(こう じゅん、? - 建武12年(36年))

寇 恂(こう じゅん、? - 建武12年(36年))は、後漢初期の武将、政治家である。字は子翼。上谷郡・昌平県(現在の北京)の人(『後漢書』列伝6・本伝)。爵位は雍奴侯。諡号は威侯。光武帝の功臣であり、河内郡太守、潁川郡太守、汝南郡太守、執金吾などを歴任した。「雲台二十八将」の第5位に序せられる

彼の生家は先祖代々、現地の有力豪族であった。寇恂は若い時から学問を好んで励んだ。後に、州郡の官吏(功曹)として、上谷郡太守の耿況(雲台二十八将の耿弇の父)に仕えた。耿況は寇恂に一目置き、その才を賞賛した。

寇恂は、更始帝の派遣した行大司馬劉秀(光武帝)が華北出身で邯鄲で蜂起した易者・王郎を討伐すべく兵を集めた頃に、太守耿況に漁陽郡と連合することを説いて上谷を劉秀に帰順させ、その一将として兵馬を率いて劉秀に合流した。故に彼は偏将軍・承義侯に任命された。後に、鄧禹の推薦によって食料の補給の拠点である河内郡の太守・行大将軍事となり、兵糧の輸送、弓射演習、矢の製造、軍馬の養成に勤めた。鄧禹が寇恂の文武の才能を述べる際に前漢の相国・蕭何を例として引いたために、よく蕭何と比較される。後にはその有能と聡明さで光武帝の信頼も勝ち得ている。

寇恂が、この河内郡の太守であった時に、黄河の対岸である河南郡洛陽から、劉秀の北伐の隙を狙った更始帝(劉玄)の武将・朱鮪・蘇茂が攻撃を仕掛けたが、寇恂は兵才を発揮し、同僚の馮異と共にこれを撃退し、逆に洛陽まで進撃した。建武二年(26年)に、その目覚しい戦功を光武帝に絶賛され、雍奴侯に封じられた。

また、彼は外交の名手でもあり、相手を説得する時にその状況を察知して、見事に懐柔することを得意とした。彼は宰相の才があると言われたが、実際そうなることは無かった。彼が治めた土地には必ず、民百姓が彼を慕ったという。また、俸禄は朋友・部下の吏士に施し「我は兵士たちによって俸禄を得た。それ独りこれを受けるべけんや」と言っていた。

その後も、光武帝の隴西遠征に従軍し、隗囂の武将・高峻を降した。しかし、惜しくも光武帝が天下統一する目前に病没した。

人柄・逸話 [編集]
更始帝の使者が郡国を巡って、先んじて帰順するものには爵位を戻す、と言うので、上谷太守耿況らがこれに従い印綬を返すと、一晩経っても返されない。そこで、寇恂は兵を整えて使者に会うと順々と理を説き、それでも肯んじないと、使者の命であると耿況を呼び、使者から印綬を取り上げると耿況に授けた。使者は渋々、耿況を太守と為した。
寇恂が潁川太守の時、賈復の配下を法によって晒し首にしたが、慣例的に放免することが多かったため、辱めを受けたと賈復から逆恨みを受ける。寇恂は、藺相如と廉頗の故事にならって難を避けていたが、最後は光武帝に事情を申し開き、光武帝が互いを和解させた。
寇恂が執金吾の時に、潁川郡に賊が発生したため、国家の大事であるからと、格下の潁川太守に再度任じられるが、寇恂は「陛下が隴蜀に有事と聞いて、誑かされて賊は出ました。陛下が潁川に御幸すれば収まります。願わくば、精鋭を率いて前駆せんことを」と言う。即日、光武帝が南征すれば、盗賊は悉く降った。故に結局、寇恂は潁川太守に再任されなかった。しかるに光武帝は百姓(ひゃくせい)から「また寇君を一年お貸し頂きたい」と陳情を受ける。
寇恂が高峻と交渉を行った時、高峻の副将皇甫文がやって来て、礼儀をわきまえないので、怒って誅せんとし、諸将が止めるも聞かず斬って、高峻には「軍師が無礼なので斬った。降りたくば急いで降れ、そうでなければ固く守れ」と伝える。意外にも高峻が降って来たので諸将が理由を訊くと、寇恂は「皇甫文は高峻の智恵袋で、元より降る気はない。あのまま帰せば、皇甫文の思う通りである。皇甫文を斬ったことで、高峻は肝を潰したのである」と答え、諸将は及ぶ所にあらずと感嘆した。

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